昭和48年10月09日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、可愛い可愛いと思うてうろたえるといけぬぞ。言う事を聞かぬ時に、ままよと思うてほっておく様な気になって信心してやれ。おかげが受けられる。」
ままよと思うてほっておく様な心というのは、自分の思を捨てた、いうなら捨て身の姿勢だと思うです。私はこの四十八節は何時もおかげが受けられる、何時もお徳を受けるチャンスを逃さない、そういう心の状態というのは、何時もままよという心、何時も捨て身の心であると言う事だと思うです。
昨日午後の奉仕の時でした、桜井先生がお参りして見えて、家内がもう私が死んだお夢を頂いた。所謂桜井先生の奥さんが、桜井先生が亡くなられたお夢を頂いたというのです。そうですねぇ、それはあなたが亡くなられると言う事では無くて、所謂いよいよ自分を空しゅうすると言う事、又奥さんとしても、もう主人は居って居らない様な物。それこそ家内は後家になったと思うてと、天地の親神様が教祖金光大神に、お頼みが御神願を教祖の神様に打ち明けられた。
その時に、どうぞ家内は後家になったと思うてと、こう言う風に言っておられる。ですからもう主人は居らんもんだ、亡くなっておるもんだと、又自分自身も何時も捨て身の姿勢、何時も所謂思いを捨てると言う事は、もう死んだ気でおらなければ出来る事じゃありません。特にお道の教師、御道のお取次でもさせて頂くという神願を立てさせて頂いた、もう此処ん所が、やっぱりすっきり出来なければ、本当のお取次を出来ませんねと言うてお話をした事でした。
是はなら道の教師とか、取次者と言う事ではなくて、信心を段々進めて行く事によって、おかげの世界から矢張りお徳の世界、おかげを受けると言う事よりもお徳が身に付いて行くと言う事が有難いと言う事になって来なければいかんのですから、矢張り同んなじ事が言えると思うのです。何時も捨て身の戦法と言いますか、捨て身の姿勢をさせて貰う何時もままよという心、そういう心の状態がです、何時もおかげが受けられる。
何時もお徳が受けられる姿勢。それには過去の事の例えば、いざこざと言った物が今でも問題になっおる様な事では、もう是は愈々つまらん。もうそれこそ流れ川三尺そん時、そん時に過去の事は、もうそれこそ昨日を忘れ、今日を喜こばしてもらう。そして明日に希望を持つ。明日にかける心、明日を楽しませて頂く所の心。そういう心の状態を何時も作っておくと言う事がです所謂四十八節です。
何時もが広がりに広がって行けれる心の状態。始終と言う事は何時もと言う事、八節、八と言う事は何時も末広がりに、何時もおかげのよりおかげの頂けれる心の状態。何時もお徳を頂くチャンスと言う物が逃さんで済む心の状態であります。所が中々所謂死んだと思うてと言った様な、所謂無欲の姿というか、そういう状態になれませんけれども、其処ん所を矢張り、焦点に置いておかげを頂いて行かなければならない。それを具体的に申しますとです、自分の子供が病気で。
難儀をしておる時にです。枕元にちゃんと座っとって、見とってやるというよりもです、そういう時に子供が例えば、言う事を聞かん時にもう、知らんぞ構わんぞと言う様な心持ちになって、神に縋ってやれと、信心してやれとこう仰る。もう是は捨て身の戦法です。だからそういう心の状態と言う物がこの心の中に、何時も頂けておるとう事がです、何時もおかげの受けられる状態。
昨日、親教会に大祭のお届けと、それからもう一つ、重大なお届けが御座いましたから、その重大なお届けというのが、私は皆さんも御承知の様に、そこのこの昔の、お賽銭箱が入口の所に置いて御座いますね。御本部御造営の事を、皆さんの真心を集めて、あの中に色々と、皆さんの、真心が何時も集められて、もうそれこそ、一円硬貨やらちゅうのは、邪魔になるけんで、入れよるとじゃなかろうかというごと。
一円硬貨が沢山入っているです何時も。中には十円、五円、中には一万円、二万円と入っている時があるです。御本部参拝する時相当まとまった金額を、いわゆる御造営費としてお供えする事が出来ました。ところがまあ、御造営の報告祭にもお参りをさして貰い、九十年の記念祭に併せて、その事が御座いましたから、もう御本部の、御造営の事はいらなくなったから、私は親教会の御造営の事に心を向けさせて。
替えさせて頂いて、早速西岡さんに言うて、あのはり紙を今まで、御本部と書いておったのを、親教会、御造営建設の願いという事にさせて頂いた この前の夏の御大祭でしたか、親先生がお祝詞の中に、三井教会の御造営の事の願いが、祈願文の中にうたってあった。それを聞かして頂いておってです、愈々親先生が神様にお祝詞の中にも申し上げられる程しの、所謂一心発起をなさったものだと感じさせて頂いたから、これは出社としてぐずぐずはしておれんぞと、私は思うて帰って来た。
思うて帰って来ましたらもうある、是はあるここの農協でした、農協からですね、もう是非一つ何て言うですかね、こう月掛け年掛けに、月掛けにしてもよし、年に一辺に上がっても良い、そう言う貯金を募集しとるから是非入ってくれと言うて来た。私はもう一も二もなしに入らせて頂いた。是を私の言うなら親教会の御造営の、今日お祭りの時、決心した事がです、もう神様が受けておって下さるなあと私は思うてから有難かった。けれども皆さんにはまだそれをお話してなかった。
けれども今度御本部参拝から帰って来てです、御本部の御造営の事に、合楽は合楽なりにおかげ頂いておりますことが、もう報告祭も終わったから、それはもう必要で無くなって来た。そこでなら親教会を、例えそれはもう些細な事であっても、少しばかりであってもです言うなら、所謂合楽の信者信奉者一同の真心を結集して、その事に一つ心を向けさせて頂こうと思うて、早速所謂切替えさせて貰ろうた。それでその事は改めて「親教会御造営建設祈願」というあのうお届けを昨日私は参りました。
それでちゃんとお初穂を準備させて頂いて、昼からお参りさせて頂く準備させて頂いているけれども、誰かあのうまだ青年会の方達が自動車の運転出来る人がおるだろう。あのう坂作るから、あちらのを借りとりましたから、それをお返ししなきゃなりませんから、それも私が持って行こうとこう思うて、けれどもこう言ういうならば有難い願いを持って親教会にお参りするのだから、とてもバスで行ったり、歩いてハイヤ-をやとって行くと言った様な事はないと私は思うておった。
けれども私の心を試して見たかった。是は本当に自分の一心、真心であろうかと思うた。それで聞かせて頂いたら車が無い。それで私は此処へ座らせて頂いた。久富先生は降りて表の方へ出た所がまあだ板が、もう三井教会から借りとった板をもう、しだごだにもう無茶苦茶にこう混ぜてあるから、いっちょいっちょ選り出して荷造りをしたと言うておられた。ははあ私が持って行く事の為に、そう言うもう荷造りも出来ておる。此処へ車さえあれば問題ないなと言うておる所に。
今日はお店が休みでしたからと言うて、紀久男さんが自動車でお参りをして来た。そんならちょっと善導寺まで送って頂こうかと言うて、善導寺まで送って頂いた 送って頂いたら、若先生がお結界におられてから、親先生は今さっき起きられて、合楽のお祝詞を書かんならんからと言うてあのう言うておられましたよとこう言われる。それで私は今度のお祝詞は、私が原稿は書いてやるけんと、親先生が言いよんなさいましたから。そんならお願いしますと言うて。
そこで私はお届けをさせて頂いた、建設の願いと言う事のお届けをさせて頂きましたから、今度の此処の教祖九十年祭のお祭りと同時に、御造営報告のお祭りを併せてさせて頂く訳ですけれども、その事のお祝詞の中にです、今度は私として、親教会御造営建設の願いと言う物を、うたって頂こうと思うて参りました。丁度親先生がその半ばまで書いておられて丁度此処から。
ああそうたいのうこれはあんたが祭主として、この祝詞を上げるならば、あんたが今言うた様な事をやっぱ書かして頂くと言う事は有難いなと、言うて親先生が大変喜ばれました。もうその辺がねははあ、私の願い思いと言う物は間違ってなかったなと感じた訳です。だから、そういう間違いのない働きと言う物が起こっておるんだと思うて、それからその事をお願いして帰らして頂いてからです。
これは私はちったどっかと言うと、のぼせる方ですからね、もう思いだしたらそれをもう矢も盾も堪らん様にして、やって行かなければ出来ない。いうならば性分ですから、是はちった自分が過ぎとるとじゃなかろうか。けれどもあれだけ神様の働きと言う物を間違いなく頂いておるけれども、是はその事に限らず私が動く時です、必ず神様のそういう働きを頂いておるとであるからね、そういう働き頂いとるとやから、そう言う意味でおかげを頂いたのであろうかと、ふと私は思うたです。
善導寺にそういう願いを持って行きよるからじゃなくて、是はもう私の上に何時も言わば、置いたものを取る様に、必要な物が必要に応じて頂けておる。日頃のそれと同じであろうかと思うたんです。そしたら神様からすぐ頂きます事がですね、そういう例えば親教会に対するならば、私としては思えば思う程有難い思いが、皆さんも御承知の様に、つい最近その大祭の日にちで色々な問題があった。
その直後に私の心がこういう状態になっておると言う事がです、それがそんなら神様のそういうお働きを受けられる事になっのであろうかと思うたら、それからではない、何時もが心の状態がね、そういう置いた物を取っておかげが頂けれる。何時もお徳の受けられるチャンスを逃さない。何時も広がりに広がる心の状態と言う物を、何時も持っておるからだという意味の事を頂いたです。ね。
そして今日の御理解四十八節を聞いて頂いてです、私の心の中には、何時もままよという心の状態である。何時も我情我欲が誰よりも少ないというね、場合にはそれが我情我欲がないという状態。そして何時ももう右左はあなた任せという、任せる心が私の心にあるから、私の上に起きて来る何時もの場合ね、もう私はその事を桜井先生に今、私が実感しておる事ですね、私が亡くなったお知らせを家内が頂いたというお届けがあった時に、その今私が実感しておる昨日ねしておる話を聞いて頂いた。
向こうが向こうなら、こっちもこっちと言った様な心の状態と言う物が、もうさらさらないと言う事。御本部の御造営が済んだら、もう、早速それを親教会の御造営に切替えておると言う事。心の状態が。あげな事があったから、もうこげな事はちょと思い立たん、なんてん言う様な、けちな物じゃない。私の心の状態の中に何時も四十八節。何時もおかげの頂けれる心の状態。何時も私が助かっておる状態。
何時もままよという心の状態とゆうものが私は誰よりも強い所に人が本当だろうかと言った様な、おかげをこうして頂き又現しておる事が出来るんだと思います。それこそもう、昨日の事は忘れきってしまって、もう今日の、有難いと言う事だけしか考えていないのです。まあ厳密に言うと、そうでもないですけれども、大体お於いて、私の心の状態と言う物は、もう昨日の事は忘れて、今日を喜ばしてもらう。
そして、明日の事をもう夢に描いておる。私が思う様な、御造営が親教会の上に、出来れるおかげを頂いたらどんなに、有難い事になっ来るであろうか。もう私はそん時に御広前、御神殿そして親先生の控え、もうその時の親先生の控えに、置かして頂く、調度品の事まで、心の中に描いておった。そういう思いが出来るという事が有難い。そういう心の状態が何時もお徳を逃さないで済むおかげを逃さないで済む、よりチャンスを逃さんで済む所の、おかげの心の状態だと思うのです。
そしたら今朝から此処で御大祭まえに、何かか踊りを稽古せんならんというので、私を先頭にこうやって踊りを踊る。そしたらポンポンと私の肩を叩くからと思うたら、善導寺の岸先生と淵上先生も来とる。そして私共と一緒に輪になって合楽の踊りを踊っている所を頂いた。お夢の中に。もう本当に神様ちゃ打てば響く様なね、どうでしょうか私ともういっちょう一緒にそんなら岸先生やら淵上先生当たりの、善導寺の中心になる、言うなら偉い御信者さん達がです。
私の思いに一緒になって踊って下さる事になって来たら、もう問題は無くなって来るだけではなくて、三井教会、合楽教会のおかげの頂けれる私は、言うなら受け物が出来ると言う風に感じさせて頂いた。皆さんもう本当にねもう是だけは、こん事だけは有難いと思いよるばってん、是だけは有難く思えんと言った様な事があっちゃならんです。例えばどんなに、その時は腹の立つ様な、モヤモヤする様な問題があっても、もうそれこそ流れ川三尺、さっともう有難いもので流してです。
もうそれこそ昨日を忘れて、今日はもう有難いと言う物だけにならせて頂けれる様な心の状態をです、あのう頂いて行く稽古をなんです。信心とは。そういう心を具体的に言うと、所謂ままよという心だと言う事なんですね、言うならば、それがおかげの頂けれる、お徳のを頂くチャンスを逃さんで済む、言うならば姿勢でありその姿勢をいうなら、捨て身の姿勢だというふうに今日は聞いて頂いた。その捨て身であると言う事、もう自分が自分を空しゅうし切っておると言う事。
其処から私は信心の所謂おかげを頂いて行く力を受けて行く世界が心の中に広がっておると思うです。どうそ御本部の御造営のその心持ちと同んなじ様にな親教会の御造営建設資金という御献費の箱が今度変わった訳ですから、皆さんどうぞ、あの不純なものがあってはいけません。それこそ、それは五円でも十円でもかまいません。ですからねあの箱にお供えをして下さると、それが所謂私の願いはそのまま神様の願いと思うて頂かにゃいけん。教会長の大坪の願いは、そのまま神様の願い。
その神願が成就して行く事の為に、それはもう些細な事であっても、その思いが結集する時に、大きな働きを呼ぶものです。そういう意味でも協力をお願いしたいと思います。今日は四十八節ですから、四十八(しじゅうはち)と言う事を聞いて頂きました。四十(しじゅう)と言う事は、何時もおかげの受けられる心の状態、何時もお徳の受けられるチャンスが来たらそのチャンスを逃さんで済む程しの心の状態をです、私は今日は、ままよと思うて放って置く様な心で神様に縋ると言う事。
只ままよと思うてほって置くと言う心だけではいかん、その心で神様に縋って行くという、それをです私はままよという心こそが、いうならば、死んでもままよの事であると同時に、自分を空しゅうした姿でもあると思うのです。それが稽古を重ねて行く内にです、すっきりと何時も心の状態がです、おかげの頂き続けられる、所謂置いたものを取って行く様なおかげの受けられる状態の、そういうおかげの受けられる心を言わば鍛うて行くというか、稽古をして行くと言う事。
自分達の心の中にもやもや色んな問題が、いやな問題があったり腹の立つ問題があったら、それがいつーも心の中に残っておる様な事ではね、おかげは頂いてもお徳を受ける受け物には決してならんです。お徳を受ける受け物には決してならんです。お徳を受けられる心というのは、もう昨日の事はそれこそ流れ川三尺どんな汚い物であっても、洗うた後はもう三尺流れたらもう、此処で綺麗な物が現れる様な心の状態が必要なんです、それで昨日を忘れ、そして今日を又喜ばしてもろうて、明日を楽しませて頂くと言う様な、心の状態を目指して信心の稽古をせにゃいけませんですね。
どうぞ。